かひのしづく

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モーリス(2)愛の諸相

愛が終わる時、何が起こるのか

小説『モーリス』の中で描かれているのは同性愛傾向のある青年モーリスの成長の軌跡です。

モーリスとクライヴは、クライブからの愛の告白をきっかけとして恋人同士になりますが、その後クライヴは突然異性愛者に転向し、二人の関係は解消されることになります。

クライヴ自身ですら自分の性向の変化に驚き、懊悩し、抵抗しますが、もはや自らの変化を否定することはできず、苦悩しながらもモーリスとの同性愛関係を解消せざるを得なくなるのですが、クライヴの懊悩を描いている場面に以下のくだりがあります。

It was all so complicated. When love flies it is remembered not as love but as something else.

まことに複雑なことではあるが、愛が去った時、それはもはや愛として記憶されることはなく、何か別のものになってしまう。

これは人の心の動きを表す実に的確な一節だと感じています。どんなに好きだった相手でも、例えば生理的な嫌悪につながるようなことがあって関係を解消してしまえば、なぜ好きだったのかすら思い出せなくなる…。そして、その関係は「何か別のもの」として記憶に残るだけで、そこにかつてあったはずの愛を「実感」として思い出すのは困難になります。

 

さて、一方で、モーリスはクライブとの別れの後、孤独に苦しみながらも、何とか自分もクライヴのように異性愛者になり、あわよくば結婚して、自らの階級や職業、法律から逸脱せずに社会の中でうまくやっていく方法はないかと試行錯誤します。

そういった状態で、関係を解消して以来初めてクライブの招きに応じてクライブの邸を訪問し、滞在しますが、モーリスが到着した時に肝心のクライブは不在で、モーリスは他の訪問客に交じってとても所在なげな気持ちを味わいます。その時のモーリスの感慨がこのように記されています。

"Clive might have...for the sake of the past he might have been here to greet me. He ought to have known how wretched I should feel." He didn't care for Clive, but he could suffer from him.

「クライヴは、過去のよしみで、僕が到着した時にここに居て出迎えれてくれてもよかったんだ。僕がどんなみじめな気分を味わうか、察してくれるべきだったのに。」彼はもうクライヴを愛してはいなかったが、まだ彼ゆえに傷つくことはできた。

これも、失恋から立ち直る途上にある人の心情をよく表していると思います。愛してはいないけど、かつての恋人の些細なふるまいに、心の傷がしくしくと痛む…。「まだ傷つくことはできた」とありますが、「できた」という表現を用いているあたり、わずかに残る愛の残骸を自覚しながら、まだそれを完全に消し去れない、あるいは潜在的には「消し去りたくない」と感じているのではないか、と、そんな風にさえ感じられます。

 

別れを告げたほうは、もう愛を愛として思い出すことができず、一方で別れを告げられたほうは、愛の最後の名残りを振り払うことができずにいる…これをほんの短い文で表せるところが、作家の作家たる所以なのでしょうね。

ハワーズ・エンド(2)人生の座布団

E.M.フォースターの小説『ハワーズ・エンド』には、異なる階級の人間たちの交流が描かれています。主人公であるシュレーゲル姉妹は十分な財産があり、裕福なので仕事をする必要がなく、インテリとしての生活を十分に楽しんで生きていける立場にあります。所謂「高等遊民」といったところでしょうか。

さて、そのシュレーゲル姉妹のうち、姉のマーガレットが、お金について語るくだりがあります。(日本語は大意)

“But after all,(中略) there’s never any great risk as long as you have money.”
「でも結局のところ、(中略)お金さえあれば、大きな危険などありません」

“You and I and the Wilcoxes stand upon money as upon islands.”
「叔母様と私、そしてウィルコックス家の人々は、お金の島の上に立っているのです」

“But Helen and I, we ought to remember, when we are tempted to criticize others, that we are standing on these islands, and that most of the others, are down below the surface of the sea.”
「でも、ヘレンと私が他人をあれこれ言いたくなった時に覚えておかなければならないのは、私たちがそうした島の上に立っていて、他のほとんどの人たちは、海面の下に沈んでいるということです」

“I stand each year upon six hundred pounds, and Helen upon the same, and Tibby will stand upon eight, and as fast as our pounds crumble away into the sea they are renewed—from the sea, yes, from the sea. An all our thoughts are the thoughts of six-hundred-pounders, and all our speeches;(後略)" 
「私は年600ポンドの上に立っていますし、ヘレンも同じです。ティビーは800ポンドの上に立つことになります。そして私たちのお金が海の中へ崩れ落ちるが早いが、お金が生まれてくるのです。海の中から。そう、海の中からです。そして私たちが考えることは、年600ポンドの収入の人間が考えることですし、話すこともそうなのです。」

彼女は自分が一定レベルの金持ちであることをはっきりと口に出して認めています。そして、年600ポンドのお金の島の上に立っている自分は所詮、海面の下に沈んでいる貧しい人々の立場に立って考えることはできない、それをまず認識すべきだということでしょう。

安定した十分な収入を、フォースターは「お金の島」と表現していますが、私は日ごろ、「座布団」のようなものとイメージしています。(うまい大喜利などを披露すると司会者から座布団をもらえる番組がありますよね、あのイメージです)ある者は、自分の親なり先祖なりが大喜利をうまくこなして積み上げた多くの座布団をもらい、生まれた時から何枚もの座布団の上に座っています。それはお金をはじめとする資産、または良い家庭環境や愛情、人の縁、精神や肉体の健康、優れた容姿などであるかもしれません。

そういう恵まれた人々は、たとえ1度や2度、へまをしたり、小さな不幸に襲われたりして、1枚や2枚の座布団を没収されたとしても、痛くもかゆくもありません。いや、多少、痛かったりかゆかったりはするかもしれませんが、人生の土台が崩れ去るほどの痛手はうけないでしょう。なぜなら、使い切れないほどの座布団のストックがあるからです。

しかし、親世代が貧しかったり、或いはよい家庭環境を与えられずに健やかな精神を育むチャンスを奪われていたり、または助け合えるような人間関係を親から引き継ぐこともできない…そういった調子で引き算が重ねられた結果、例えば平均的な人が5枚の座布団の上に生まれて育つところ、もし2枚の座布団しか与えられていなければ、1回、2回の小さな失敗や挫折で、冷たい床の上に座ることになり、そこから這いあがるには、よほどの才覚なり運なりが必要になります。長い間冷たい床に座っていると、その冷たさに慣れてしまったり、体が凍えてしまったりして、最後には自力で座布団を得ようとする気力も失われるかもしれません。

私は働き始めてから、このように感じるようになりました。自分には、決して多くはないものの、数枚の座布団が与えられていること、そしてその有難さに気づいたからです。

ともあれ、シュレーゲル姉妹はお金の島の上に立っていますが、彼女らと出会う青年レナードは、水面の下にいる人々に属しています。異なる属性(階級)の者同士の出会いから、大小の事件がさざ波のように起こることになります。

ちなみにフォースター自身は、親類から譲り受けた十分な財産があり、大学卒業後もあくせく働く必要はなかったようです。庶民からすると、うらやましい限りですね。

ハワーズ・エンド

📖現代にも通じる多くの示唆にあふれた作品📖

フォースターの長編の中で『ハワーズ・エンド』もまた大好きな作品です。淡々と過ぎていく家族の物語に見えて、その実、当時のイギリスの置かれていた状況と、その将来の姿が浮かび上がってくるように感じられます。

それぞれの登場人物が、各々の階級によって、あるいはどのような場所に属しているかによって、どのように生きているか、又は生きざるを得ないか…イギリスが、産業や技術の発展のもたらす都市への人口の流入と、それによる都市の膨張によって、何を得て、何を捨てようとしていたのか…いくつもの示唆を得ることができる作品だと思っています。

ロンドンに住む主人公のシュレーゲル姉妹(弟もいますが)は、ドイツ人の父とイギリス人の母を早くに失い、長女のマーガレットが若い頃から家長として家を切り盛りしています。資産があるため、働かなくても贅沢な生活を営むことができ、音楽会に行ったり、インテリ仲間との討論会に参加したりして日々を過ごしています。

そんなある日、姉妹は音楽会の会場で、ふとしたきっかけから、貧しい青年レナード・バストと出会います。

レナードについての作者の説明は辛辣ですが、格差の広がる現代日本に生きる労働者として、私自身とても身につまされます。

”The boy, Leonard Bast, stood at the extreme verge of gentility.(中略) he was inferior to most rich people, there is not the least doubt of it.”

この青年、レナード・バストは、紳士としてふるまえるぎりぎりのところにいた。(中略)彼が多くの金持ちよりも劣っていることは、疑いもなかった。

”His mind and his body had been alike underfed, because he was poor, and because he was modern they were always craving better food.”

貧しいがゆえに、彼の心と体はどちらも栄養不良で、そして近代人であるがゆえに、常にもっと良い食物に飢えていた。

”Had he lived some centuries ago, (中略)he would have had a definite status, his rank and his income would have corresponded.”

もし、彼が何世紀か前に生きていたのなら(中略)彼の身分は明確で、彼の地位と収入とが一致していたことだろう。

”But in his day, the angel of Democracy had arisen, (中略)proclaiming, ’All men are equal—all men, that is so say, who possess umbrellas,’ and so he was obliged to assert gentility(後略)”

しかし彼の時代には、デモクラシーの天使が現れ(中略)「全ての人間は――即ち、傘を所有する全ての人間は平等なり」と宣言したのだ。(中略)だから彼は、紳士であると主張せざるをえなくなったのだ。

レナードは、祖先はおそらく地方で農業などの肉体労働に従事していたであろうに、何代か前の世代が大都市の産業の発展に吸い寄せられてロンドンにやってきて、継代の結果、肉体労働をしていた祖先が持っていたはずの頑健さをすでに失い(もう田園での生活には戻り得ず)、一方で都市において上流階級に立ち混じることができるほどの収入も教養も手にすることができず、日々の生活に喘いでいる存在として描かれています。

もし何世紀か前であったなら、彼は田園の肉体労働者として、相応の身分にしっかりと腰を落ち着けて、その身分相応の収入でそれなりに暮らしていたはずです。

しかし、彼は現代のロンドンで勤め人として暮らしているがゆえに、どん底の貧困に落ち込む一歩手前のような収入しか得られないにもかかわらず、紳士であること、或いはその「ふり」を止めることはできません。そこにしがみつくことを、彼自身が望んでいるのは勿論ですが、勤め人である以上、社会が彼に求めていることもまた、紳士のふりを続けることなのかもしれません。

 産業の発展が大都市にもたらした結果の一つが、多くのこのような人々なのです。現代日本の都市においても、同じような現象が起きていないとはいえない、そんな風に感じさせられます。

源氏物語の女君

📖あなたならどうする?

私は一応大学時代に国文学を専攻していまして、近世(江戸)文学で卒論を書きましたが、源氏物語についてもほんの少し勉強し、レポートなども書いたことがあります。ですが、まあ、源氏物語といえば『あさきゆめみし』という素晴らしい漫画作品をはじめ、現代語訳された親しみやすい作品が多数存在していますし、専門的に読み込まないまでも、多くの方が内容についてご存じでしょう。

また女性であれば、源氏物語の女君たちの中で、どの人物になりたいか、または自分はどのタイプであるか…と考えを巡らせてみることもあるでしょう。それもまた、平安時代、及び後世において多くの読者を惹きつけてきたポイントであろうと思います。

私自身について考えてみれば、もちろん明石の君や紫の上、はたまた藤壺の宮、玉鬘の君、朧月夜の君、と、美と才能とを兼ね備えた女性たちに憧れるのは当然のことですが…どうも、自分にはその器量(美醜という意味の器量はもちろんですが、人間としての器)がないような気がしてならないのです。たとえ出自が良かったり、周りの人におぜん立してもらったとしても、自らの器量不足により、どこかの時点で破綻するような気がするのです(典型的なケースとしては女三宮のような感じでしょうか?)

それ故、できることなら花散里のような穏やかな性格で、穏やかな人生を送りたい…というのが自分なりの結論です。しかしながら実際には、六条御息所のように嫉妬に明け暮れてしまう可能性が高い…などとも思うのでした。

中国語「月光族」

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月光族(yuè guāng zǔ)って?

ちょっと古いかもしれませんが、中国語に「月光族(ユエグアンズウ)」という言葉があります。50代以上の方であれば往年の子供向けヒーロー番組『月光仮面』を連想するかもしれませんね。

月光族」の「月」は、「moon(お月さま)」ではなく、「month(暦の上での1ヶ月)」を意味しています。また「光」は「光っている」という意味ではなく「~し尽くす」「きれいさっぱりなくなる」というような意味で、この場合は「お金を使い切る」ということ。

つまり「月光族」とは「一か月のお給料を、その月できれいさっぱり使ってしまうライフスタイルの人々」を指しています。そして個人的には、この「給料を使い切る」ことについても、貧しくて生活費がカツカツである、という暗いイメージよりは、積極的に消費を楽しむことの結果としてそうなっている、というイメージが強いように感じます。10年くらい前、中国の経済発展が著しく、消費意欲も旺盛になった時代に、都市部でこのような生活スタイルの人が増えたのでしょう。

 

モーリス(Maurice)

📖作者の死後に発表された小説📚

『モーリス』E.M.フォースターが1913年に執筆した小説です。

ですが、同性愛をテーマにした作品であったため、執筆当初は発表されず(作者の少数の友人たちには読んでもらっていたようですが)、作者の死後に出版されました。

物語前半の舞台となっているケンブリッジ大学で、フォースターも学生生活を送りました。

ただ、面白いのは、作者が主人公のモーリスに、自身とは全く違う属性を与えていることです。

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語学と仕事

🐰仕事のツールか、仕事そのものか📚

 

私は、語学を飯の種にしています。

 

イギリス文学やアメリカの作家の作品が大好きですが、仕事で扱っている言語は英語ではありません。

語学にかかわっているせいもあり、語学についてぐだぐだとつまらないことを考えることも多いです。

言語は意思疎通のツールであることは疑いもない事実ですが、「仕事に生かす」という意味で考えた場合、「仕事のツール」であるのか、それとも「仕事そのもの」であるのか、という違いが出てくるかなと思います。

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